泡沫人 ―01―
―もうすぐ、己(お)れの命は尽きるのだ。
あの人は、儚く微笑んでそう言った。
何故、そんなことを言うのかと問うと、真上に上った満月に照らされながら。
―己れの命を繋いでいる主人を、己れの兄弟が倒してしまった。
だから、消えるのだ。
猩々と、何か獣の哭く声が響く。
もの悲しげに、侘しげに、恨めしそうに。
よく晴れた日の午後。
あの人は溶けてしまった。泡のように、綺麗に消えて何一つ残らなかった。
この世で何一つ、手に入れることも掴めることも出来なかった私の、唯一の宝物であったのに。
生れ落ちた時から、普通の人とは違う私は、この森に隠れるようにして逃れてきた。
最早、逃げるしかなかった。人々は私を蔑み、忌み嫌い、石を投げつけ…そのまま居たら、きっと私は殺されていた。
だから、この―魔物が住む―という伝説が息づく森で、息を潜め夜に隠れひっそりと、ただ一人朽ちる時を待ちわびて。
そんな私を救ってくれたのがあの人。
傷付き、迷い込んだこの森で、あの人と私は出会った。
―お前と居ると、俺は一人の人間で居られる。
あの人はそう言って、親にすら忌み嫌われた私に柔らかく微笑んでくれた。
私は初めて幸せというものを知った。
いつまでも、あの人と一緒に居たかった。居られると、信じていた。
だって、あの人の声は柔らかく、不思議な色の瞳は優しく、大きな手は温かかったから。
―俺の中に、もう一人の己れがいて、体も全ても支配されそうになる。
辛い、苦しい。
あの人はそう言った。
そして、私の傍にいるとその声も支配も届かなくなるのだと、子供のように抱きついてきた。
―あぁ、糸が、切れる。もう、ダメなんだな…
そう呟いて。
あの人は私の目の前で崩れ落ち、そしてどろどろに溶けて、消えてしまった。
私と存在した証拠も何一つ残さず、消えてしまった。
あの人と一緒に、私の中に宿ったあの人の半身さえも、どろどろと原形を留めず崩れ落ち。
私の中から流れ落ちて、儚く消え去った。
返しや。
返しや。愛しい人を、愛しい子を。
何故に私から奪い取った――
憎い。
憎い、憎い、憎い―――――
月光が照らし出す暗い森の中、獣の哭く声が木霊する。
「…ああ、そうだな。此処からこの森の先までを管轄とし―――」
小さな村だった。寒村といっても差し支えないかもしれない。
都市部から離れすぎている上に、周りを鬱蒼とした森と断崖に囲まれ、村に至る道がまるで獣道のように細く不確かであったから、あたかも時代の波に乗り遅れたような古風な造りの家並み。村人も殆どが老人で子供の姿も余り見かけない。
「…はぁ〜。こんな村が未だにあるとは思わなかったぜ」
辺りを見回して大柄な青年が口を開く。
「確かに、ここいら辺は複雑な地形だから地図にも載ってねぇしな」
その青年よりも更に大柄で一見強面の男が苦笑すると、向うで村の代表者らしき老人と話をしていた細身の若い青年が、2人の方へと歩いてきた。
「…で? どうなった?」
「ああ、とりあえず、此処の森を視察してから、かな。難しいな…これは」
大して困ったような表情もなく、細身の青年がさらりとした黒糸の前髪をかきあげる。
「そうだな。これだけ鬱蒼としていると、ローランディアとバーンシュタインの境目なんざ解りゃしねぇ」
手に持った両刃の大きな特殊剣の持ち手の部分で肩を叩きながら、目を覆うように何かの機械をつけた男は息を吐いた。
「…ん〜。そもそもよ、何でこんな奥地くんだりまで将軍のおっさんと、特使で騎士様のお前が来なけりゃなんねーんだ? こーいうのって、それ専門の調査団とか、そんなんがするんだろ?」
大柄の青年が頭をぼりぼりと掻きながら、明らかにこの3人のリーダー格である細身の青年に尋ねる。
「…まぁ、そうなんだけど。ちょっと今人手が足りないのと、俺が新しい王様に嫌われているのと、何でも凄く凶暴な魔物が出るとかで結果的には俺に回ってきちゃったワケ」
半端に着込んだ赤いジャケットから覗いた肩を竦ませて、体のいい使いっ走りだよ、と青年は苦笑した。
「…凶暴な、魔物、ねぇ…。ま、いざとなったら俺がぶった切ってやるよ」
「ああ、頼りにしてるよ、ゼノス。ウォレス、ティピはルイセと一緒に?」
「うむ。此処に一番近い村…と言っても馬で半日以上掛かるがな…そこの宿で待機してもらってる」
「一人じゃ寂しいって、駄々を捏ねるからな。ティピが居れば我慢して待ってるだろう」
ルイセは幾つになっても甘えん坊だからな、と青年はクスクスと忍び笑いを漏らす。
「そんじゃ、ま、行ってみっか? カーマイン」
「ああ。そうしよう。森の中で日が暮れるのは避けたい」
大柄な青年―ゼノスを先頭に3人は村の外れから鬱蒼とした森に足を踏み入れた。
森に足を踏み入れてどれくらい経っただろうか。
うへぇ、とゼノスが情けない声をあげる。
「…しっかしこりゃまた、すげぇ森だなぁ」
「ああ、まるで…『迷いの森』みたいだな」
行けども行けども更に木々は連なり、一向に終わりが見えない。
「おい。此処ら辺はいきなり森が切れて崖っぷちになってたりするから、くれぐれも気をつけろよ?」
しんがりを務めるウォレスが注意を促すと、へぇへぇと相槌を打って先頭を歩いていたゼノスの足が止まった。
「どうした? ゼノス」
「あ。いや…今、何か聞こえたような気が…」
足を止めたカーマインが耳を澄ますと、どこかで誰かが泣いているようなか細い声が聞こえてくる。
「…ああ、確かに……うむ、泣き声が…」
ウォレスが頷くと、更に声は近付いてきた。
暗い森の中、草を踏みしめる小さな弱々しい足音。
「…魔物にでも、襲われたってか?」
不敵な笑みを見せながら、ゼノスは彼の得物である大きな両刃の剣をゆっくりと構えた。
「…いや、待て、ゼノス」
カーマインが制止の声をあげるのと、森の奥―木々の合間から泣き声の主がその姿を現したのは同時だった。
ボロボロの、元はワンピースだったのだろうか、白い布を体に巻きつけただけのような状態で、足元はよたりよたりと引きずるように此方へ近付いてくる一人の少女。顔は蒼白し、長い髪もぼさぼさ、目は虚ろで何かをぶつぶつと呟いている。
「…ひでぇ格好だな。やっぱり襲われたんじゃねーか?」
ゼノスが眉を顰めると、少女はふらりと地べたに座り込んだ。
両手で肩を抱きしめるように掴んで、返して、返して、と呟き、肩を震わせる。
合わせて、憎い、憎い、と呟き、嗚咽を漏らした。
「…おい、カーマイン、こいつぁ…」
ウォレスが声をかけるよりも先にカーマインの足が動く。
「君、大丈夫? どこか、怪我をしてるの?」
座り込んだ少女に近寄り、カーマインは片膝を着いてゆっくりと手を差し伸べた。
その手に縋り、
「ああ…あなた、待っていたわ…待っていたの。あの人を返して」
暗い色が差し込んだ瞳を向けたまま、少女のもう片方の手がカーマインの首元に伸びる。
何かが光った。
そう思った瞬間に、赤いものが勢いよく目の前に散った。
――なんだ、これ…? 赤い…? 赤い、雨…?
首筋が熱い。
ドクドクと脈打ち、そして冷めていく感覚。
「…カーマインッ!!!」
――え…? あ、これ…俺の血? こんなに赤かったんだ…
遠くでゼノスとウォレスの声がする。
首筋から大量に流れ出るものの正体が、己の血だと解った刹那、カーマインは傷口を手で押さえ口の中で何事かを呟いた。
――ダメだ…このままじゃ、命が流れ出ていってしまう…
「…このアマっ!!」
「しっかりしろ、カーマインっ!!」
死ぬのは怖くなかった。ヴェンツェルを倒すまでは―――
しかし、ヴェンツェルを倒し、彼と共に歩み始めた今となっては、死ぬのが何よりも怖い。
いや、死そのものよりも、彼の前でどろどろに腐って溶け落ち、醜い怪物の破片となって消えてしまうのが怖かった。
――まだ、まだ何も伝えてない…まだ、まだ…
意識が遠のく。
心音が遅くなる。
「…あはっ…あはははっ!! やった、やったわ!! これでお前も終わり。あの人と同じように、溶けてなくなってしまえっ!!」
少女は地面に崩れ落ちるカーマインを見下ろしながら、興奮に頬を赤くし、狂ったような笑い声を上げた。
その瞳に宿るのは純粋なる狂気。
「…ぅ、ぁ……ゼノ……」
糸の切れたマリオネットのように、求め伸ばされた手は空を掴み、そして落ちた。
「…どけっ!!…くっ…カーマインっ!!」
駆けつけようとしたゼノスの足に纏わりつく少女を跳ね除け、崩れ落ちたカーマインの体を抱き上げる。
肌は蝋人形のように白く青ざめ、閉じた眼はピクリとも動かない。手に伝わる体温は徐々に触れた場所から零れ行く。
「…おい、冗談だろ? なぁ、カーマイン。こんなに…簡単にくたばるんじゃねぇよっ! 畜生っ!!」
「…こんなものを、隠し持っていたとはな…」
カーマインの足元に落ちてるガラスの欠片を拾い、ウォレスは眉を顰めた。鋭利に尖った先端に真新しい赤い血が絡み付いている。
「感心してる場合じゃないだろ!? 早く、医者だっ!!」
ぐったりと動かなくなったカーマインの首筋に、ゼノスが懐から取り出した白い布を巻きつけているその背後で、少女は悦にいったように笑い声を上げていた。
「…あの人と同じ…ふふっ…あははっ…消えてなくなるわ。ふふふっ…あのこと同じ。腐り落ちてグダグダに溶けて、あははははっ…泡のように、消える…ふふっ…」
パン
「うるせぇ。その耳障りな口を閉じろ。カーマインがもし死にでもしたら、お前をぶった切ってやるからな」
少女の頬を容赦なく引っ叩いて、ゼノスはカーマインを背中に担いで立ち上がる。
「早く村に戻るぞ。それから、医者だ」
ゼノスの剣を預かったウォレスが先を促し、2人は急いでもと来た道を引き返した。
その背を追うように
溶けてなくなるよ 跡形もなく綺麗に溶けて 泡のように消えるよ
甲高く狂った笑い声がいつまでも響いていた。
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