約束




 …あ、れ。何でこんな事になったんだっけ?
 ちょ…待てよ、落ち着け、俺。落ち着いて思い出せ、俺。

 小鳥が囀るすがすがしい朝。
 窓から差し込んだ一条の光に意識を揺り起こされたヴァレリーは、欠伸をしながらのそりと起き上がり、何気なく辺りを見回して、そして硬直した。
 元々一人用の狭いベッドで、壁際に擦り寄るように体を寄せて眠る自分以外の細い体。
 それくらいなら然程驚きもしないのだが、如何せん、その人物は真っ裸だった。同じく自分も真っ裸だった。更に、いまだ健やかに眠るその人物の、ヴァレリーから見れば白い肌には幾つもの小さな赤い痣が浮き、見るからに情事の後を匂わせている。そして、最も重要なことは、その人物が女ではないという事だった。
 ――…えっ…ちょっ…!? りー…だー…?
 さらりとした紅髪が、呼吸するたびに細かく揺れる。
 薄く開いた唇も、どこか腫れぼったく見える。
 ――どう見ても、これは……俺が、襲っちゃいました的な…
 ヴァレリーは両手で頭を抱えて、大きく溜息をついた。兎に角、何故このような事態になったのか、それに至るまでの経緯を思い出そうと、己の記憶と悪戦苦闘する。

 確か…えっと…そうそう。
 この世界から魔法を消して、そんで、コイツも俺以外の奴らの記憶から抹消されちまった。
 それから一年も、コイツはこの世界の何処にも存在しなくて…
 あの最後の戦いの前日、もう一度此処で会おうと約束したオーディネルへ向う街道で、俺はコイツを待ち続けた…
 待って待って、ただ只管、祈るような気持ちで待ち続けて…
 日がかなり傾いて、もう来ないんじゃねぇか、あの時…一緒に消えちまったんじゃねぇか、なんてらしくもなく弱気になった頃、ひょっこりとコイツが現れて…
 それから、俺たちは未だ残るモンスターを掃討しに、2人だけの旅に出ることにした――

 そうだ。
 そして、幾つかの町を訪れた後、この村がモンスターの被害にあっているという話を聞き、俺たちはそのモンスターを倒したんだ。
 お礼なんかいらないって言ったのに(俺は、俺たちはただの自己満足で、この世界を平和にする為の仕上げをしているのだから)、村総出のお祭騒ぎになっちまって…(まぁ、それだけモンスターの被害が甚大だったのだろうが)、俺もコイツもしこたま出された酒を飲んで…
 ……
 ………あれ。其処から記憶がねぇ……

 二日酔いとは別の頭痛がしそうな己の記憶力に、ヴァレリーは眉を顰めて唸った。
 ――やっぱ…しちまったのかな?
 ちらりと隣で眠る彼の相棒を見下ろす。
 ――…俺のケツは痛くねぇから…やっぱ、俺が掘った…んだよな…
 乱暴に前髪をかきあげて、溜息一つ。
 ――まぁ、確かに…俺は…
 シーツから露出した上半身を、ゆっくりとなぞるように目で追う。

クレヴァニールが好きだ。

 いつから、彼をそんな目で見ていたのか、今は思い出せない。
 最初はただのチームメイト。そしてリーダー。
 単騎で戦うことしか、どうしたら目の前の敵を沈められるか、その事にしか頭の回らなかったヴァレリーとレムスに的確な指示を与え、勝利を収める優れた采配の持ち主。
 表情に乏しく、飄々とした雰囲気で読めない奴だと思ったが、それは直ぐに、不器用なまでの優しさと照れ屋を隠すための仮面だと気付いた。
 采配だけでなく、クレヴァニールには魔法も剣の才もあり、この細い体で何故それほどにまで強いのか疑問に思った事さえあった。
 その才能に畏怖したのは、連れ去られた先でミュンツァーと出会い心酔し組して、敵対するマーキュレイの兵として彼が立ちはだかった時。仲間だった頃は頼もしかったその采配と剣の腕が、最大最強の壁として目の前に現れ、ヴァレリーは為す術もなく何度も敗れ去った。
 そして。自分を庇護してくれていたミュンツァーが死に、ヴァルカニアから逃げ出し追っ手に追われ、追い詰められて死を覚悟したあの時――クレヴァニールは嘗て牙を剥いた自分を助ける為に、あのオーディネルへ向う街道に現れた。
 ――コイツに救われた…俺の命…
 自棄になりかけてたヴァレリーを自軍に迎え入れ、更に迷いも何もかも全て吹き飛ばしてくれた…導いてくれた人物。惹かれない理由など、何処にあろうものか。
 けれども。
 ヴァレリーはクレヴァニールが自分を気遣うのは、友情からだろうと思っていた。厳しい戦いのさなか背を預けられる親友兼相棒として。だから、ヴァレリーも極力そういった意味合いでの立場を守ってきた…いや、きた筈だった。

 ――なんで、こんな事に…

 こちらに向けられた背中に、僅かに、薄っすらとだが2本、縦に腰近くまで伸びた裂傷のような痣が見える。
 レムスが言っていた、『血の翼』の痕だろう。人々の記憶から、魔法も召喚術も天使も消えうせたが、あの戦いの真意を覚えている自分と、天使の因子を持っていたクレヴァニールだけには意味のある聖痕。
 その傷痕につと指を伸ばして触れ、細い、肢体だと思った。レムスのように小柄でも華奢でもない、筋肉だってそれ相応に付いてはいるものの、ヴァレリーから比べれば随分と細く…弱々しくさえ見える。

 ――この細腕に、俺は助けられてたんだな…いつも…

「……ん…」
 ヴァレリーの指の感触に反応したのか、小さな息を吐きながらゆっくりとクレヴァニールの目が開く。
「……ヴァレリー? あれ…もぅ、朝…?」
 少し寝惚けているのか、声は掠れ気味で小さく。
 ヴァレリーはハッとして、慌てて手を離した。そして瞬時に青くなる。どう説明してよいやらこの状況。
「……あ、ああ…起こしちまったか、悪かったな…?」
 不自然までに棒読みでコチ固まったヴァレリーの声に、気だるげにクレヴァニールは体を起こした。
「…別に。起こせば良かったのに…」
「…いや、だって…」
 はたと顔を上げて、クレヴァニールは目を細めた。
 目の前にいるヴァレリーが素っ裸だったからだ。(とはいえ、下半身はシーツに隠れて見えないが)
 暫し無言のまま、そしてゆっくりと自分を見下ろす。自分もまたシーツから露出した部分が裸であった。
「………」
 その嫌に静かでゆっくりと感じられた気まずい雰囲気の中、ヴァレリーの顔は真っ青になり、今までの出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。ああ、もう直ぐあの細い指に嵌められたリングウェポンから鋭利な刀が呼び出されて、反撃する暇もなく俺は膾切りにされるんだろうな、とか、俺の武器は投剣だから、こんな至近距離からじゃモーション遅くてガードできねぇよ、とか、どうせ殺されるなら、意識のあるうちにやって置けばよかったとか、そんな思考がぐるぐると頭の中を駆け回る。
「…す、すまない、リーダー! 酔ってたとはいえこんな事、許されねぇとは思うけどっ…でも、そのっ…兎に角すまねぇ!!」
 相手の反応は火を見るより明らかだと思ったヴァレリーは、取りあえず謝り倒すという方法に打って出た。慌てて飛びのき、ベッドの下で土下座しながら何度も頭を下げる。ちらりと表情を窺ってみれば、クレヴァニールの整った顔は不機嫌そうに歪められてはいたが、リングウェポンを呼び出している(または呼び出そうとしている)気配もない。それどころか…
「…あ、れ? リーダー…顔が…」
 耳まで真っ赤。
「…また、言った」
「…へ?」
「俺が、何に怒っているのか、解るか?」
 じろりと睨まれヴァレリーは萎縮する。
「…そりゃ、その…酔った勢いで、俺がリーダーを襲った…から?」
「3回目。仏の顔も三度までだぞ、ヴァレリー」
 クレヴァニールの言わんとしている事がヴァレリーには解らなかった。
 彼の言い回しではどうやら、ヴァレリーに襲われた事に対して怒っているのではなさそうだ。
「…え? ええ?」
「思い当たらないか? 思い出せないのか?」
 一つ、小さく溜息をつく。その仕草も何か色っぽいと、不謹慎にもヴァレリーは思ってしまった。
「じゃあ、ヒントをやる。俺は、お前と寝た事を後悔してないし、怒ってもいない。ついでに言っておけば、これは合意であって強制でも強姦でもない」
 クレヴァニールのヒントは、益々ヴァレリーの頭の中を混乱させた。
 リーダーは、襲われた事に対して怒っていない。
 リーダーは、合意の上で俺と寝た。
 じゃあ、なんだ? なんで怒ってるんだ…!? ああっ…クソッ!! 何で思いださねぇんだよ、俺の頭は!!
「…バーカ。バカバカバカ。ヴァレリーの鳥頭。自分で言った事くらい、ちゃんと覚えてろよ。撤回すんな、こののーたりん」
「…ぅぐっ…」
 言い返せない。正にその通りの自分の様に、ヴァレリーは言葉を詰まらせる。
「…嬉しかったのになー。俺と同じ気持ちだったんだなって」
「…え?」
「…人を口説いた時の記憶くらい、ちゃんと覚えてろよ、この馬鹿」
 そっぽを向いたクレヴァニールの顔は、滅多に見ることも出来ないほど真っ赤に染まり。
「…それって、まさか…リー」
「4回目。仏の顔も三度までって言ったよな。もう、マジで許さねぇぞ。今度言ったらぶっ飛ばす。もう二度とお前とは寝ない」
 言葉を遮られて、そこで漸くヴァレリーは何にクレヴァニールが怒っているのか気付いた。
 クレヴァニールは、ヴァレリーが自分を…
「…それは勘弁してくれよ、クレヴァニール」
「解れば宜しい」
 名前で呼ばないから、怒っていたのだ。
 確かに、既に肌を重ねた間柄なのに『リーダー』と呼ぶのは些か他人行儀過ぎる。
 そんな些細な事にすら気付かなかった自分が可笑しくもあり、ヴァレリーは留めていた息を吐き出して大声で笑った。
「じゃあ、許してもらえるのか?」
「…何を?」
 きょとんと見返す相棒兼親友兼恋人にサッと近寄り、
「俺がお前を好きなこと、俺がお前をもっと抱きたいと思っている事、そして――お前を、『クレヴァニール』と呼ぶ事。全てを、だ」
 顔を寄せ、頬におはようのキスを落としながら訊ねる。
「許してやるよ。俺も、お前が好きで、お前と一つになりたくて、お前に――名前で呼ばれたいからな」
 そう言って、今度はクレヴァニールからヴァレリーの頬にキスを返した。



 すっかり忘れてるみたいだけどな。
 ちゃんと約束したんだぞ?
 恋人になる気があるなら、名前で呼べって。
 そしたら、お前は約束するって。何度も何度も俺の名を呼んで…

 もう二度と、『リーダー』とは呼ばないって。





ありがちなお話ゆえにありがちなオチで。
2008/05/09